農 謠
 
 

我が農民は、骨のおれる仕事から疲れを忘れ、能率を向上させるため、歌いながら仕事をしていた。こうした歌を「農謡」といい、田畑歌または農作業歌ともいう。テーマは主に農業と関連した内容である。重要無形文化財に指定されている農謡として、慶尚南道の「固城農謡」と慶尚北道の「通明農謡」がある。

 

  農 機 具
 
   

韓国の農機具
農機具は農作業のより、耕す道具、代掻きする道具、草取りする道具、水を引く道具、收穫する道具、運搬道具、扱く道具、精米や製粉をする道具、保存する道具などに分けられる。耕す道具には犂(すき)、畦立器、小型すき、鋤などがある。耕す道具のうち、最も代表的なものは、やはり犂であるが、牛が入ることができない狭い畑には小型すき、くわ、シャベル、熊手鍬などで耕す場合もある。草取りする道具には、ホミ(草かきくわ)がある。ホミは韓国のみに存在する特有の器具で、地域の土質や耕作物などによって刃や取っ手の形が異なる。

収穫した穀物は脱穀用叩き石や脱穀用具の上に打ち下ろしたり、殻竿で叩いたり、稲扱きや千歯扱きなどでそいで?穀する、比較的原始的な方法が長期間使われてきたが、1900年代初から、足で踏んで回す機械式脱穀機を使いし始めた。穀物の外殻を剥がしたり、挽いたりする時にはうすや踏み臼、水車、桶臼、ヨンジャメ(研子磨)などを使用した。農産物を保存したり、入れておくときは、穀物の種類や量によって甕、米櫃、稲叢、俵、かます、畚、ミョクドングミ(藁で編んだ穀物入れ)などを使用した。

 

 

  絵の中の農耕  
   

尹斗(ユン・ドゥソ)
尹斗(1668-1715)は、韓国の美術史上、朝鮮中期と後期をつなぐ重要な画家である。
本貫は海南で、字は孝彦、号は恭齋で、〈漁夫四時詞〉で有名な孤山・尹善道の曾孫であり、茶山・丁若繧フ母方の曾祖だ。

1693年、25歳に進士になったが、党争で社会が乱れになると、官職を放棄し、詩・書・画で一生を送った。
1712年の45歳の時、全羅南道の海南蓮洞に都落ちし、絵と文字を友として過ごしたが、特に人物画と馬の絵が上手だった。

息子の尹コ熙、孫の尹?二、二人とも絵が上手で、母方の曾孫の茶山・鄭若繧ノも影響を与え、また実学的な側面でも注目されている人物だ。
現在海南宗家の拷J堂には、彼の代表作である自画像の他、様々な学問的な傾向を分かる地図や絵画帖などが保存されている。

特に彼の作品中には、南宗文人風に重要な役割を果たした《顧氏?代名人?譜》もあり、彼が南宗画風と関係があったことがわかる。
有名な〈自画像〉・〈艾圖〉など、60点余りの小品からなる《海南尹氏家傳古?帖》と多数の絵が伝われており、著書では《記拙》がある。

趙榮皆(チョ・ヨンソク
チョ・ヨンソク(1686-1761)は、朝鮮後期の文人画家で、本ェは咸安、字は宗甫、号は觀我齋だ。
1713年、28歳に進士試験に合格し、正3品の敦寧府都正を勤め、死後に?曹參判に追贈された。

記録によると、1748年に肅宗の肖像の作業に監董として参加せよと命じられたが、技術で王様に仕えるのは学者の道理ではないといい、断ったという。
彼は人物画だけでなく、山水画や?毛画にも上手であり、尹斗獅ニ同様、朝鮮中期の伝統的な画風を継承しながら、南宗画法を少々加えた画風を特徴とする。
日常の風物を描いた《麝臍帖》は、後代に流行する風俗画の先駆けとして注目される。文集には《觀我齋稿》がある。
代表作としては〈雪中訪友〉、〈江上釣魚図>、<針仕事>などがある。
 
吳命顯(オ・ミョンヒョン)
命顯は尹熔と共に18世紀初、趙榮皆の後を継ぎ、個性美と現場の寫生の斬さをよく生かした画家として有名だ。平壤で生まれで、字は道叔、号が箕谷ということ以外は、出身や生涯、交友関係、作品活動など、ほとんど知られていない。
吳命顯の俗画は、現場写生の描写技法には趙榮皆の影響を、背景処理には朝鮮中期の山水画風と趙榮皆・??祥の南宗画風の影響を受け、風俗画としても面白い一方、風俗画の様式発展において重要な役割をした
 
金得臣(キム・ドクシン)
金得臣(1754-1822)は朝鮮後期の画家で、本貫は開城で、字は賢輔、号は兢齋だ。
画員であった應履の息子で、應煥の甥であり、弟の碩臣、息子の建鍾、秀鍾、夏鍾の全員が図画署の画員だった画員家の画家だ。
1791年、正祖の肖像画作業に李命基、金弘道と共に参加した。
風俗画家として広く知られており、道釈人物画、山水画、?毛?にも上手であった。
金弘道の影響を強く受け、風俗画に山水を背景に入れ、敍情的な雰囲気を醸し出した。
代表作としては〈野猫盜雛〉、<風俗画帖>、〈出門看月圖〉などがある。

俊根(キム・ジュングン)
大韓帝国末の風俗画家。号は箕山。成長過程は知られていない。1889年頃、釜山に住んでいた時に宣ヘ師のJ.S.ゲイルと初対面し、92年にゲイルと共に元山に行き、漢訳の《天路?程》の挿画を担当した。それ以外にも19世紀後半の生業?遊び?刑罰?儀禮など、庶民の生活相と民俗風景を描いた300点余りの風俗画を残し、韓国を訪れた学者や宣教師らによって西洋に紹介された。韓国より海外でもっと有名で、95年にはドイツのハンブルク民俗博物館で彼の作品が展示された。韓国では、崇實大学博物館に風俗帖があり、ドイツのハンブルク民俗博物館收蔵の《箕山風俗図帖》がある。
 
金弘道(キム・ホンド)
金弘道(1745-1816以降)は子が士能、号が檀園・檀丘・西湖の朝鮮後期の代表的な画員画家である。
当代の評論家で、文人画家の?曹參判姜世晃の推薦で、図画署画員となった。
29歳の1773年、英祖と太子の肖像を描いたことにより官職に上がり、いつくもの官職を経て、忠C道延豊縣監まで務めた。
彼は容姿が端麗で風采がよく、また度量が広く性格が闊達で、まるで神仙のようであったと伝われている。
金弘道は一般的に風俗画でよく知られているが、実際には、南宗画、平生図、神仙図、風俗画、道釈人物画、花鳥?、眞景山水、肖像画など、すべての分野で越した技量を見せた。その中でも山水画は最も優れる。
彼の山水画は余白を適切に残しながら、対象を圧縮し、密度のある構図法と、形状を集約し、表現する描写力、そして趣のある?染法により、?弘道の山水画は眞景山水と南宗文人画が一つなる高い芸術的境地を見せてくれる。
彼が定立した風俗?様式は、同時代の兢斎・?得臣、恵園・申潤福にも大きく影響を与え、さらに彼の後輩らがそのまま追従し、彼の息子である肯圓・??驥、?塘・白殷培、恵山・?淑、詩山・?運弘等によって継承された。
彼の山水画では鄭?や金應煥の影響が多少感じられるが、彼は実景を素材に檀園法と呼ばれるほど洗練し、個性の強い独創的な画風を成し遂げた。
また、彼は山水画だけでなく、道釈人物画でも獨特な?風を開拓した。
太く力強い衣のひだと風にひるがえる衣のすそ、そして天真爛漫な顔付きなどにも特徴がある。
しかし何よりも彼を際立たせるのはやはり風俗画だ。
彼の風俗画は、朝鮮後期の庶民の生活相を簡略でよい構図の円形にし、滑稽的に表現した。
代表作としては、馬上でウグイスの鳴き声を聞き、立ち止まったという<馬上廳鶯圖>、その他に〈群仙圖八曲?〉<叢石亭圖><渡牛圖><杜甫詩意神仙図><群賢図><舟上観梅図>、また韓国的なユーモアと風情の盛り込まれている25面の《風俗画帖》の他、様々な山水画帖がある。

尹熔(ユン・ヨン)
尹熔(1708-1740)は朝鮮後期の画家で、字は君ス、号は皐、本貫は海南だ。
尹斗獅フ孫で、尹コ熙の二男として1735年に進士に及第したが、書?に志を抱いたという。
記録によると、「彼は酒が好きで、気品のあり、清らかな性格に容貌端正で、美しかった」と伝えられている。
残っている作品を見ると、彼は祖父の尹斗獅ニ父の尹コ熙の画法を忠実に従ったと思われる。
しかし33歳の若さでこの世を去り、彼自信の画風を定立する十分な時間がなかったようで、優れた作品をたくさん残すことはできなかった。
彼の作品には家門の画風を継承した痕跡があきらかで、家法として定着した南宗画風に従い、風俗画では尹斗獅フ画風を連想させる〈ナムルを取る女〉があり、その他に〈樹下讀書圖〉などがある。

イ・ハンチョル(李漢普F1808-1880以降)
イ・ハンチョル(李漢)
1808年(純祖8年)に安山・李氏の家門に生まれた彼は、字が子常、号が希園・喜園・松石とし、雲斎・?義養の息子だ。図画署の画員出身で郡守を務めた。彼は元末の4大家の影響を受け、山水・人物・折技に優れ、王族の肖像画を描くほど上流社会にその能力が認められた。伝えられている作品としては、澗松美術館收蔵の「秋林讀書圖」、パク・ウォンヨン收蔵の「溪山雙羊圖十二幅?風」などがある。

マ・グンフ(馬君厚)

生没年不詳。朝鮮後期の画家。本貫は長興、字は伯仁。その生涯や業績などは知られていない。
人物画と?毛画が上手で、特に1851年(哲宗2)春に描いたものと推定される〈村女採種圖〉は田舎で畑を耕す女達の風俗を扱い、注目されている。
その他に国立中央博物館收蔵の〈樹下僧侶圖〉と〈猫圖〉、ソウル大学博物館收蔵の〈雙土圖〉 などが伝わっているが、全て筆致が鋭く、描写力が優れている。
 
シン・ユンボク(申潤福: 1758-19世紀初)
本貫高靈。字は?父。号は實、金弘道,金得臣と共に朝鮮3大風俗画家といわれている。彼は風俗画だけでなく、南宗?風の山水や?毛などにも優れた。俗?を頻繁に描き、圖?署から追い出されたと伝えられており、彼の父親の申漢?と祖父は画員であったが、彼が画員であったかどうかは分かっていない。ただし、伝えられている作品の干紀から、国立中央博物館收蔵の《衣被きを被った女》に記されている1829年が一番遅いので、だいたい19世紀初に活動したと思われる。

画員だったかどうかは不明であっても、職業画家として当時の需要に応じ、多数の風俗画を描いたものとみられる。代表作としては、国宝第135号に指定された《實傳神帖》がある。30点余りからなるこの画帖は、澗松美術館が收蔵し、韓国内だけでなく海外でも展示され、外国にもよく知られている。

社会の各層を網羅した金弘道の風俗画と違って、彼は都会地の遊び人や芸者など、男女間のほのかな風情をよく表現し、当時の愛情と風流を覗き込むことができる。この他にも、国立中央博物館收蔵の《彈琴》など、6点になっている?帖も有名だ。また肖像技法で描いた《美人圖》は、朝鮮の女性の美しさをよく表現した傑作に評価される。

イ・バンウン(?ム運: 1761-19世紀初)
本貫は咸平、字は明考、号は箕野?心齋?淳齋?淳翁?箕老?心翁?心老などを使った。絵の他に琴も上達で、詩文にも才能があったという。
画家としては山水画と人物画が上手であったが、伝わっている作品を見ると、特に故事や古詩を素材にしたものが多い。ほとんど南宗?法に基づいて、淡白な雰囲気をよく現わしている。彼の画風は簡略化した形態とあっさりした淡彩、短い線と細い点の連続の輪郭線、そして簡略した細筆などが特徴である。
代表作に国立中央博物館收蔵の《彬風圖》、梨花女子大学博物館收蔵の《C溪道人圖》、弘益大学博物館收蔵の《?川十景圖》などがある。

 

  朝鮮時代の農書と文献
 
   

農事直説

農事直説
1429年(世宗11年)に鄭招が王様の命令で、地方から調査して報告された各種農事法をまとめて編纂した韓国初の総合農業技術書で、耕作?種の準備?種の撒き方?肥培管理などに関する詳しい内容が収録されている。




山林經濟

朝鮮中期、洪萬選(1643-1715)が山林經濟に関する内容を体系的に整理した一種の生活百科辞典で、穀物は勿論野菜、花などの栽培と養蜂、養魚、養蠶、養畜などの農業に関連した内容が記録されている。




林園經濟志


1842-1845年の間に徐有而が完成した総合農業技術書で、『林園十六志』ともいう。全113巻52册の膨大な規模で、農作業法だけでなく、土地制度.水利.土木.肥料.農機具.土壌などに関連した内容を扱い、その他に食品?調理.住居?服飾などの内容も載っている。



農家要訣


著者や年代は不詳であるが、内容と体制から見て洪万選の『山林経済』から農事に関連した内容のみを選び、編纂したものと推定される。様々な品種が掲載されており、用語も韓国語の表記が多く、『山林経済』以後の韓国の農業技術を理解するのに重要な資料である。



穡經


1676年(肅宗2年)朴世堂が中国の農書を参考にして上下2册に完成させた総合農業技術書で、食糧作物?野菜?果樹?花?薬用植物?養蚕?養魚?養畜などの内容が収録されており、農業と関連した天文?地理?草木?鳥獣等についても記録されてい



農家集成


1655年(孝宗6年)にシン・ソクが、世宗の『勸農ヘ文』、鄭招の『農事直説』、朱子の『勸農文』、姜希孟の『衿陽雜?』及び中国の『四時纂要抄』などをまとめ、さらにそこに自分の注釈を付け加えて編纂した農林畜産に関する総合技術書である。

 

 

  農家月令歌
 
   

農家月令歌は、朝鮮獻宗の時、丁若繧フ二男の丁學遊(1786〜1855)が著した月令体長編歌辭で、農村で一年間、季節に従って行うべき仕事を諭し、時期による?時風俗を行いながら生活する姿を歌った教訓的な内容である。

農事について、季節別に科学的な知識が載っており、農村の?時風俗がよく表現されている。農民を導くための請誘形の勸獎歌謡である。

最近、気候の変化と農業技術の発達で節氣の基準が少し変わってきたものの、週間農事情報と農家月令歌は、その脈を同じくするといえるだろう。