鉄器時代とは?
 
 

鉄器時代は、紀元前1世紀〜3世紀までの300年間をいい、三韓又は三国時代の初期に当たる。この頃の三国は、まだ強力な王権は確立されず、考古学上では石器と青銅器が消滅し、鉄器の使用が本格化した時期だ。釜山をはじめとした朝鮮半島の南部地域は、鉄器文化の流入がより遅れ、起源を前後した時期になってはじめて鉄器を使用し始めたという。

鉄は主に農具と武器を作るのに使用され、また貨幣の代わりに物々交換の媒介物としても利用され、遠く離れている地域からも鉄を持ちに来たという。このような状況から、鉄が当時の社会文化レベルの尺度であったのは確であるとみられる。釜山地域と?東江の下流で大量に生産された鉄は、この地域の農耕文化と全般的な社会経済を発展させる基盤となり、また新しく登場する伽?文化の発展の促進剤になったでしょう。このような釜山を中心とした三国時代文化は、鉄器文化を土台に発展した。

 

  遺跡と遺物
 
   

鉄器時代の土器
軟質土器は無文土器と同様、露天窯または窟窯にて、入り口を開放した状態で焼き、赤褐色、褐色、黄褐色、黒褐色などの褐色を帯びているが、時々灰色も見られた。形はより多様化し、ほとんど住居址と貝塚から出土され、生活用土器として使用されたと推測される。その後、灰青色の硬質土器の登場により、その用途が制限され、炊事などの台所の容器として使用された。
瓦質(灰陶)土器は灰色、灰黒色、赤褐色で、その固さが瓦と同様であるということで付けられた名前だ。まだ窯跡が発見されず、詳しい焼き方は分かっていないが、灰色を帯びているので、密閉された窯で製作されたと推測される。

器の形は漢国の木器や土器と似た点もあるが、青銅器時代の無文土器が変化して形成されたものが多い。生活遺跡からも多数出土されているが、ほとんど棺の墓や槨の墓から出土されており、もともと墓の副葬品として製作されたものと考えられる。この土器は原三国時代の末期、灰青色の硬質土器の登場により、完全にその役割を喪失し、消滅された。


丹陽スヤンゲ遺跡
[ 位置 : 忠清北道丹陽郡赤城面艾谷里 ]
[ 時期 : 鉄器時代 ]

1995年から1997年まで3回にわたって忠北大学博物館によって発掘されたスヤンゲ遺跡からは、30基余の住居址が発掘された。住居址はほとんど「凸」字型や長方形になっており、泥で底が固まれ、さらにすべての炉が住居址の中央から上方に傾いている。

出土された遺物としては、無文・叩き目文土器、つぼ、蒸し器などの土器類と、挽き石・鉄鎌・砥石・石斧・釣針・鉄斧・磨いた石剣・網錘・半月形石刀・錘車などの遺物や、米・麦・小麦・小豆・緑豆・大豆・粟などの穀物が出土された。特に、小麦と粟が大量に出土されたことが注目される。

遺跡の年代はだいたい紀元前後から起源後3世紀代にわたる時期と推測され、比較的長期間にわたってここで生活していたことが推定できる。

光州新昌洞遺
[ 位置 : 光州市光山区新昌洞 ]
[ 時期 : 初期鉄器(BC100〜AD100)(史跡第375号) ]

この遺跡は栄山江流域の沖積台地と、残丘状丘陵地帯に位置しており、ここから北方1.5qに月渓洞長鼓墳(記念物第20号)がある。この遺跡には初期鉄器時代(紀元前2?1世紀)の沼澤址、窯跡、排水施設、住居址、甕棺墓など、古代農耕文化生活と関連した遺跡が集中している。

住居址は長方形の穴蔵で、岩盤層を掘って作ったが、一部遺失された。床の中央部には泥を焼いて固め、楕円形の炉を設けた。長軸は南北方向で、長さ430p、幅320p、長さ20pである。 遺物としては炉の回りで軟質圓底短頸壺と砲弾型の打捺文土器が、北側の壁際で軟質の赤褐色土器が出土された。

このような遺跡・遺物は当時の生産や流通、埋葬遺跡の一部を伺うことができ、この時期の生活様式や農耕生活の発展、傳播経路などの研究に貴重な資料となる。

 

  食べ物と農耕
 
   

青銅器時代から鉄器時代になる1〜3世紀頃には、鉄器が普及し、犂の刃、鎌、草かきくわ、くわなどが鉄製に変った。またU字型の小型犂や熊手鍬などの新しい農機具が作業効率を高めた。
河川の周辺には水利施設を築造し、農耕地を広げた。3世紀以前には、自然の低湿地の一部を農耕地として利用していたが、3世紀以後からは水利施設の池・堤堰などを築造し、これを利用して新しく農耕地を開墾した。

鉄製の農機具の普及とともに農業生産におけるもう一つの変化は、牛が引く犂の使用である。牛を利用することにより労働力を減らし、深く掘ることができ、農業生産力を増大させた。
稲栽培による治水工事と灌漑工事、水利施設は、国家の主な事業だった。漢江流域の百済は平野と河川が多く、稲農業を重視していた。