青銅器時代とは
 
 

青銅器時代は、青銅で道具を製作・使用し、生活した時期である。最初は、銅に他の鉱物を混ぜず、銅だけで道具や装飾品を製作したが、徐々に亞鉛や朱錫鉛などを混ぜ、硬質の青銅を生産するようになった。

青銅器時代に多用されていた無文土器と磨製石器、青銅器を中心に形成された文化を無文土器文化というが、これは前時期の新石器時代の櫛目文土器文化と区別されるもので、青銅器時代を代表している。

朝鮮半島の青銅器文化の上限年代に関する見解は様々で、未だにまとめられた結論が出ていない。特に、青銅器文化の開始年代については、櫛目文土器と無文土器との関係、青銅器が武器や生産の道具として果たしていた役割などが明らかにされておらず、問題は多く残っているものの、現在の学界では紀元前10世紀以前と考えている。

後期青銅器文化は、初期鉄器文化と重なり、実際に様々な青銅器がこの時期に大量に発見されており、朝鮮半島の全体的な青銅器文化を考えると、この時期を後期青銅器文化と見なすのが妥当でしょう。
青銅器時代は、その以前の社会とは比較のできないぐらい暮らし方が多元化し、複合的に発達され、さらに生活方式においても農耕生活が狩猟や採集より大きな役割を果たすようになった。

このように青銅器時代には、社会の組織?文化が発展し、青銅器の製作やこれに伴う技術の発達、専門職の発生、灌漑農業と剩餘生産の蓄積、これによる貿易の発達、階級発生と国家の形成などがなされるようになる。

 

  遺跡と遺物
 
   

清原郡宮坪里遺跡
[位置 : 忠清北道清原郡江外面宮坪里315・316番地 ]
[時期 : 青銅器時代 ]

忠北大学先史文化研究所により1993年に発掘された。この遺跡では、青銅器時代と高麗時代の2つの文化層が確認された。青銅器文化層からは、窯跡3基、穴蔵跡6基、地上家屋の柱穴跡1基と各種の土器・石器類が、穀物としては稲・小豆・大豆・ひえなどが出土された。

種籾は殻だけ残り、1粒が出土され、長さ7.73mm、幅3.5mm、長さ/幅の比が2.14で、典型的なジャポニカ型と判断された。

小豆2粒は窯跡から出たもので、炭化され区別しにくいが、形から小豆と判断され、現代の小豆よりは小さく、野生の小豆よりは大きい方である。

大豆も炭化した状態で2粒が発見されたが、それぞれサイズは違うものの、ほぼ野生のものと同様のサイズである。

この遺跡は、美湖川平野に広く形成された沖積平野に発達した大型先史遺跡で、扶餘の松菊里遺跡より進行した様々な文化的特長を有している。

 

 

  道具の製作と使用
 
     
    人類が最初に使用するようになった金属は青銅器である。その理由としては、まず青銅の主原料の銅が地表面の近くに埋蔵されており、また製?に必要な温度が他の金属に比べて低く、新石器時代に土器を焼くぐらいの温度でも十分製錬できたという点などをあげることができる。

青銅は銅と朱錫の合金だ。東アジア地域の青銅器には、一般的にここに鉛が加われる。韓国の青銅器も銅・朱錫・鉛などが含まれているが、特に亞鉛が大量に含まれているものもある。亞鉛の合金は、中国では漢の以前にはほとんど見られず、宋の時代にも稀にみられる非常に高いレベルの技術で、既に紀元前10世紀頃に、このような高いレベルの技術を習得していたのである。従って、韓国の青銅器は形態上、中国と区別されるだけでなく、特に亞鉛を合金する高度の技術を持っていたという点が強調されるべきである。

中国では、泥の鋳型で青銅器を製作したが、韓国では一般的に石の鋳型を使用した。特に滑石剤の鋳型は非常に優れたもので、鑄造物の表面の質を高め、また半永久的に使うことができた。滑石(蝋石)の軟かい性質のため、彫刻しやすく、さらに鑄造時に鉄液から生じるガスの圧力によく耐えられるため、半永久的で、鑄造物の表面をきれいにすることができるなどの特長がある。
鋳型の枠は、1つのものと2つを合わせた合范があり、前者は鏡のようなものを鑄造する時に利用し、合范は斧やのみ、銅劍などを鑄造する時に利用する。合范は2つの枠を合わせた上面に注入口があり、ここから鉄液を注ぎ入れて製作する。鑄物製品の側面にできた痕を砥石で磨き、刃を磨くなどの仕上げをする。
 

 

  食べ物と農耕
 
     
   

青銅器時代には、より加工された農機具が開発され、農作業の大きな変化が起きた。農作物としてはアワ、ヒエ、モロコシ、稲以外に麦類が栽培し始まれ、これで5穀が揃えられた。松菊里遺跡地の場合、稲が他の穀物より多いことから、紀元前1000年の前半期からは稲農業が定着したとみられる。
最近の遺跡発掘によって、青銅器時代の耕作地が発掘されたが、代表的な遺跡として晋州の大坪里遺跡と、夫餘の九龍里遺跡などがある。

青銅器時代の農耕がわかる資料として、用途は確ではないが、「儀器」と推測される農耕文青銅器がある。絵の中には種を撒いて、秋の収穫をする農作業や、それと関係のある農耕神の使者として鳥に関するものが描かれている。前面には、三韓の蘇塗や現在も存在しているソッデ(村の守護神の鳥模型)と関連した木が彫られている。この時、鳥は穀物の種子を運んでくる伝令、または絶対者と地上をつなぐ伝達者としての役割を果たしていたと推定される。

裏面には小型すきで畑を耕す姿やくわ作業と箕作業の姿が彫られている。そして農作業をする男性の性器が強調されることにより、農耕で男性が占める比重が増大し、これによる男性中心の家父長的社会に変化していることを示している。

 

 

  生活相
 
     
   

紀元前10世紀頃に満州とモンゴル地域からツングース系の新しい種族が韓半島に進出してきた。彼らは、先住民を青銅器文化に同化させ、徐々に勢力を拡大し、現代の韓国人の祖先になる。この時代には、穴居生活をしながら、青銅製の各種儀器や道具、磨製石器、多様な無文土器などを使用した。

青銅器時代の住居址は、ほとんど川辺や渓谷が見渡せる低い丘陵に位置していた。この時代の住居形態は、新石器時代より穴が浅い半地上家屋として発展した。家の形はほとんどが方形か長方形である。

面積は、最も狭いのが10u前後で、一般的には20u前後だ。
床に柱を立てる方法には、穴や床に直接立てたり、原始的な礎石の上に立てるなど、いろいろ方法があり、二つの方法を同時に使う場合もある。柱は壁に平行に3〜4列配置する方法が一般的であった。住居址?の炉は、床を掘ってその周囲を砂利などで囲み、楕円形?長方形にしたり、地面を少し掘って作ったが、松菊里住居址のように炉がない場合もある。床は地面をそのまま固めたり、土を4〜5cmの厚さに敷いてから火をつけて固くしたりしたが、床には藁や草を編んで敷いたと思われる。

これに比べて、瑞山の休岩里?扶餘の松菊里?清原の内秀里居昌の大也里?濟州の三陽銅などでは円形のものが分布している。住居址の面積は20u前後が多く、床はは円形が一番多い。また、住居址の内部には炉がなく、作業穴という楕円形の浅い穴蔵があるのが特長である。

銅器時代には、新石器時代に比べて磨?法が石器の製作に普遍的に利用され、また生活が多様化する従い、機能に応じた形態に定型化され、石器の種類も多様化した。土器は、粘土に粗い砂や割石を混ぜて焼いた無文土器が中心をなし、使用目的によって様々な形に製作された。

墓の様式としては、ドルメン石棺墓?カメ棺墓?棺墓などがあり、初期鉄器時代まで、その伝統は引き継ぎました。墓の出現は、先史時代の新しい精神文化の変化だといえる。

しかし、より重要な事実は、農耕と牧畜が本格的に始まり、生産力が増加されるようになり、社会の内部に身分的差が生じたということである。農耕の存在は松菊里遺跡など、複数の遺跡から出土された炭化米や農機具などから、その様子をうかがうことができる。農耕文青銅器の文様に表れているように、くわやすきを利用した畑農業が盛んだったことがみられる